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『誰も知らない』感想

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 (0)動画サブスクリプションサービス登録への道

以前から動画のサブスクリプションサービスに登録することの憧れはあったものの、定額で見放題とはいえ映画って月に何本も観れるものなのだろうか、また、ドラマを全くと言っていいほど見ない自分にとってメリットはあるのだろうか・・と思い登録をしていませんでした。

しかし、4月に書籍版の『ハイパーハードボイルドグルメリポート』を読み、この本の完成度の高さに圧倒され、どうしても過去放送分を見返したくなりました。『ハイパー』は有名なサービスほぼ全てで視聴可能なため、1ヶ月間様々なサービスを比較検討してみましたが、結局Amazonプライムに登録しました。(理由はゴジラシリーズが全て観られるという情報を得たためです。)

『ハイパー』は1回30分ほどの番組のためすぐに観終わってしまい、ゴジラシリーズを順番に見ていくかなと思っていた矢先、フィルマークスの「いつか観たい」リストに入っていた映画がAmazonプライム内に数多くあることが分かりました。

 

これまでずっと、映画といえば部屋を暗くし、比較的大きな画面かつノンストップで見なければいけないという自分なりのルールがありました。しかし、読書だって中断して、読んで、を繰り返してラストまでいくのに、映画でそれをしてはいけない理由はないのではないかと思い、いわゆる読書方式で映画を小分けに観る、ということを6月8日からやってみました。

前置きが長くなりましたが、その試み第1号映画が是枝裕和監督の『誰も知らない』です。

 

 (1)子どもの欲求レベルについて

最近、子どもが出てくるアメリカ文学作品(『誕生日の子どもたち』、『ナイン・ストーリーズ』など)を読んでいたため、無意識に子どもが出てくる作品を求めていたのかもしれません。

前情報としては、是枝裕和が監督の作品であること、主演が柳楽優弥であること、過去にあった子どもに関する事件が元ネタになっていることの3点くらいでしたが、鑑賞後かなり色々考えさせられる映画だったので感想として残したいと思います。

ここから先はネタバレとまではいきませんが、内容の本質に触れる部分もあるため、読む際はお気をつけくださいませ。。

 

まず冒頭部分から出てくる柳楽優弥の顔が子どもとは思えないくらいのセクシーさで、一発で心を奪われました。何も言わなくても何かを訴えかけてくるような目力と、反対に涼しげな口元(書いていて自分でもおかしな表現だと思いますが、実際に見てみると本当にそうなのです)のバランスが素晴らしい。言うなれば、クラスにこんな男の子がいたら好きになるけど敷居が高すぎて気軽には話しかけられないような顔です。

そんな端正な顔立ちの男の子・明が、学校に通わせてもらえず家で親の代わりをするというのが一貫して続く話なので本当に何とも言えない気持ちになるのです。

母親に買い与えられたであろう漢字ドリルに書く字は、字というよりも不安定な線をいくつも引き重ねた塊。分からない漢字を辞書で調べても、辞書に書いていることが分からないから正解を導き出せない・・・学校に通わせてもらえず、学がない親のもとで育った12歳の明の現状を、この短いシーンから読み取れ悲しくなりました。また、別のシーンにはなりますが近所の公園で明がボールを拾い、上に投げ自分でキャッチすることを繰り返す場面は一人で遊ぶことしか知らないことを象徴づけているように思いました。

 

明には年の近い京子という妹と、園児ほどの年齢の茂とゆきという弟、妹がいました。それぞれ母親は同じで父親が全員違うという設定だったため、顔の系統がバラバラな子どもを採用したのでしょうか、特に明と京子は顔が全然似ていない。

明が誰が見ても目を惹かれる容姿なのに対し、京子の顔だちは淡白で、話し方にも子どもらしいパワーや抑揚がないところがとても印象的でした。時々、大人でもなかなか出ないような低くて冷たい声で呟き、ドキっとさせられました。

明と京子は親に「学校に行きたい」と訴えるシーンがありますが、茂とゆきはそのような要求をしない。茂とゆきの望みはマズローでいうところの「生理的欲求」で止まってしまい、「社会的欲求」のレベルまで至っていないということが分かります(年齢的な観点から「社会的欲求」まで至らないのは致し方ないのかもしれませんが、家の中での先を見通せていない行動から「安全欲求」についてもほぼ無いように思えました。これは、母親が2人の存在を隠し、家から出ないように躾けていたこととも繋がっていると考えられます。)

何らかの経緯で外の世界を知っているため「社会的欲求」のある明と京子、「生理的欲求」で止まっている茂とゆきの対比はこの作品で外せないポイントだと思います。

 

 (2)新しい子どもの社会と翳りゆく部屋

母親が4人の子どもを家に置いて帰らない場面で着目すべきは、子どもたちに新しくできるコミュニティです。

4人の中で唯一外出が許されている明は、外の世界で春休み中の同学年男子たちと出会い、一緒に遊ぶようになります。明は友達ができたことを喜びますが、彼らを自宅に出入りするようになり4人をとりまく環境は一変します。

大人がいない明の家は何時間ゲームをしても咎められることがない、子どもたちのユートピアとなります。しかし、そこまで広くない部屋に4,5人の男子たちが入ってくると京子、茂、ゆきの居場所はなくなります。

意図せず弟・妹たちの居場所を奪ってしまうきっかけをつくった明は罪悪感を覚え(ているように描かれ)ますが、友達を失いたくはない。明と京子が家事を協力し合い清潔に保たれていた部屋はどんどん汚くなり、ゴミ屋敷のようになっていきます。(『万引き家族』でも思いましたが、是枝監督がつくる空間での表現は本当に素晴らしいと思います。)

春休みの期間が終わり、中学生になった友達と再び遊ぶ口実をつくるため、なけなしのお金で新しいゲームを買いますがやんわりと断られてしまいます。そしてその後、同学年男子たちが明の家に足を運ぶことはありませんでした。

ここまでかなり長く書いてしまいましたが、映画ではかなり短くまとめられています。しかし私はこの場面が4人にとってかなりイレギュラーな事態で、黙って受け入れているようで誰も受け止められておらず、それが生活空間の不潔さに繋がっていく。そして、明が変わっていくきっかけになる大切な場面だと思い、詳細に書いてみました。

 

 (3)明の立場の変化

同学年男子や、いじめられ不登校になってしまった女生徒・紗希との出会いにより、明は外の世界での楽しさ、悲しさを知っていきます。それと並行し、生活インフラをとめられるほど4人の生活はどんどん困窮していきます。また、明は声変わりが始まり、心も少しずつ大人に近づいていきます。(服の匂いを嗅ぐシーンから思春期の始まりを感じました)

去年の冬には優しかった明の口調も、翌年の夏には大人顔負けの激しく、下品なものになります。それは様々な要因が複雑に絡み合った結果と言えますが、明の立場が自分たちを捨てた母親(=一家の主人)にシフトしている点も見逃せません。

特に、外で遊ぶ茂に対して明が「もう帰ってくんな」と言うシーンは、明が4人兄弟の中の一人ではなく、一家の主人に切り替わったことを決定づける場面だと思います。

母親不在の一家では、年長の明が一家の主人にならざるを得なかったのだと思いますが、それを引き受けることはあまりにも荷が重く、社会から断絶されている状況も踏まえると非常にアンバランスで、それが京子、茂、ゆきへの態度や発言に出ていたと思います。

子どもがあのような演技をすることで見え辛くなっていますが、明の3人への発言を大人が子どもに対するものと置き換えると、完全に躾けの域を超えた、児童虐待の現場なのです。そこまでを見越してあの場面を構築しているのではないでしょうか。

 

 (4)ラストシーンについて

私は話の流れ的にも、『万引き家族』のようなラストシーンになると思っていたので、最後まで観たときにこれで終わり・・なのか?と思ってしまいました。

そして、シンプルなエンドロールが流れる中、じくじくと胸が痛み、これは1週間くらい引っ張っちゃうやつだなあと独り言ちました。

ラストシーンについては是枝監督も様々なインタビューで語っておりますので作り手の意図については割愛しますが、私はあんなに切ないラストシーンはないと思いました。

陽炎がゆらめくような暑い昼中に横並びで歩く兄弟たちの日常はもう長く残っておらず、終わりに近づいていることが明確だからです。

このような視聴者側の胸の痛みとは相反して、スクリーンの中の兄弟たちはこれからも今まで通りの日常が続くと信じて疑っていないように見え、その温度感の差が見る側を更に切なくさせます。最後の最後で子どもの無垢さにやられるわけです。

 

『誰も知らない』は、観る人が日頃何に関心を寄せているかによって感想のポイントが異なる映画だと思います。

感想を書いてみて、今自分が何に関心を寄せているのかが少し分かった気がします。

 

充実した有給でした。おやすみなさい。