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邦楽アルバムランキング(15位〜11位)

※本記事は11月3日にYouTubeのリンク等、一部を修正しました。

 

8月某日、いつものようにツイッタートロールをしていると以下のようなツイートを見つけました。

 

 

こういうランキングって年末になると音楽雑誌でよく見かけるけど、だいたい1年間でのベスト100だし、邦楽は好きだけど好みに偏りがありかつ懐古厨な自分がそこまで熱心に追いかけられる気がしない、というイメージでした。

しかし、上記の企画は幅広く選べるかつルールが細かく(1960年〜2019年発売のアルバムから30枚選び順位付け、ただし1アーティスト、1バンドにつき3枚まで、ベストアルバムは選べない)これに自分も参加できるならぜひ選んで投票したい!と思い、30枚を選出、順位をつけました。

この記事では私が選んだ1位〜15位のアルバム紹介とお気に入り曲のポイント、自分の思い出と絡めて書き残したいと思います。

ちなみに、なぜ1位〜30位について書かないのかと申しますと、自分が本気で思い入れを込めて順位をつけられたのは1〜15位だったからです。いかに自分がベストアルバムやらシングル単位で曲を聴いてしまっているかを知りました。企画を立ててくれた方には申し訳ないのですが、16〜30位はなんとなく、そのときの気分でつけてしまいました。ゴメンナサイ

とはいえ、せっかく記憶をかき集めて選んだアルバムなので書き残そう!と思い(ブログの更新をさぼりすぎてしまったので、リハビリの意味も込めて・・)今、中日vsヤクルトの試合を観ながら文字を打っています。5回裏、2−6で負けているのですが、果たして中日は逆転できるのでしょうか・・

 

では早速、15位から見てみましょう。カウントダ〜ウン(CDTV風)

 

 

15位 『彼女』aiko(2006年)

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小学生のとき、この「スター」という曲に感銘を受け、初めて親に買ってもらったアルバムが『彼女』です。この頃からaikoをはじめ、YUKI椎名林檎をよく聞くようになりました。自分が小学生のころ、恐らく一番影響を受けやすい人間である両親が、当時はなぜかアンチ邦楽で、家庭内で音楽番組を見ることはほぼなく、普段の生活で聴ける音楽といえばクラシック(当時楽器を習っていたので練習曲を中心に)や、日本人だと久石譲坂本龍一の曲しか聞かせてもらえませんでした。

ちなみに現在は両親とも邦楽を聞きます。また、実家がものすごく格式高いというわけではありません。ただ、小さな田舎町で比較的子供にお金をかけている家というプライドがあり、子供に聞かせる音楽を制限していたのかもしれません。当時はその抑圧がかなり辛かったのですが(学校でクラスメイトと話が合わない)、今思うとありがたい話です。

このアルバムは夏に発売されたこともあってか、全体的に夏っぽい曲が多かった印象です。歌詞カードの中のaikoも半袖だかタンクトップだかに腿があらわな短パン、パーマがかかった少し長めのショートカット(長いのか短いのかどっちだ・・)確かそんな感じでした。

aikoのアルバムなので言わずともですが、ほぼ全部恋愛の曲です。シチュエーションは様々ですが、好きな人へのひたむきな思いを歌った曲が多かったです。確か。

これはまた何かの機会にまとめられればと思うのですが、aikoの醍醐味は時々出てくる「この心情・場面は口に出したくない」という類の思いが入った曲なんですよね。このアルバムだと「ひとりよがり」がそれに近いです。

動画を載せた「スター」はメロディが素晴らしいですね。今聞いてもサビに入る瞬間が気持ちよすぎます。

また、最後の「瞳」という曲は恋愛ソングのイメージが強いaikoには珍しい、命への讃歌です。

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シングルではないのでなかなか聴かれる機会が少ないのですが、この曲はもっと評価されてもいいのでは、と思います。

 

 

14位 『大人』東京事変(2006年)

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東京事変は良いアルバムが多すぎて3枚に絞るのが大変でした。『大人』は2枚目のアルバムで、1枚目からのメンバー入れ替えも落ち着き、現在の編成になってからは初めてのアルバムでした。何度も申し上げてしまい恐縮なのですが、本当にどのアルバムも甲乙つけがたいんですよね・・じゃあなぜ東京事変で一番高順位のアルバムが14位なのかというと、東京事変よりも椎名林檎ソロ名義の1、2枚目のアルバムが素晴らしすぎるかつ、他にも入れなきゃいけないアルバムがあり、バランスを考えての14位でした。

言い訳はここまでにして・・私が選んだ『大人』はテーマの一貫性も好きなんです。当時聞いていたときは子供ながらにこのアルバムを聞いて大人とはなんたるかを学びましたね。「秘密」「化粧直し」「修羅場」「ブラックアウト」「黄昏泣き」・・・今聞いてもドキドキします。私の心は17歳で時が止まっているので。

ラストから2曲目の「透明人間」は、ちょっと系統が違ういうか、自分の弱さとか不安定さを見せる曲なんですよね。大人がいかに自分の感情と折り合いをつけているかを歌っていて(もしかしたら綺麗に解釈しすぎているかもしれない)今聞いても新鮮というか、身につまされる思いです。

恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたりしたら

濁りそうになったんだ

今夜は暮れる空の尊い模様を真っ直ぐに仰いでる

明日も幸せに思えるさ

またあなたに逢えるのを楽しみに待って

さようなら

 

 

 

13位 『LIFE』小沢健二(1994年)

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このアルバムは、正直自分が高順位にしなくても自然と票が集まるだろうから13位にしたという側面もあります。なんか打算的ですね。。でも、時代が移り変わっても評価が高いことを誰も否定できないアルバムであることは間違いないです。そりゃまあ、ちょっとは『LIFE』だけ注目されすぎでは、『刹那』も名曲揃いなのに・・・と思うこともあります。

年齢的なところも合間ってか、小沢健二の曲を一人散歩しながら聞いているとどうしようも泣きたくなるんですよね。とはいえ小沢健二をよく聞くようになったのはここ2、3年くらいで、きっかけはでんぱ組.incがカバーしていた「強い気持ち・強い愛」を聞いてからなのでまだまだ歴は浅いです。でもきっと高校生のときに聞いていてもそこまでハマっていなかったとも思います。あくまで私個人の印象ですが、小沢健二の曲は日常の場面を切り取って、サンプリングして、それを俯瞰的に見た上でまとめあげた、みたいなイメージです。「愛し愛されて生きるのさ」なんてまさにそんな感じ。今聴くから、心の琴線に触れるのだと思います。

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「ぼくらが旅に出る理由」も好きなんですよね・・短編小説を読んでいるような気分になります。このミュージックビデオも、当時小沢健二がビジュアルも含めて人気があったからこそつくれたものですよね。5分半、小沢健二のモーニングルーティンをただひたすら流し続けるってなかなか挑戦的だと思います。

 

「ドアをノックするのは誰だ?」は分かりやすく甘々なラブソングなのですが、ところどころドキっとする歌詞が入っているのがお気に入りポイントです。

誰かにとって特別だった君を マーク外す飛び込みで僕がサッと奪い去る

 

僕はずっとずっと一人で生きるのかと思ってたよ

 

 

 

12位 『joy』YUKI(2005年)

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YUKIがソロ活動を初めてから3枚目のアルバムが『joy』です。アルバム内にはシングル曲の「joy」も入っています。このアルバムはジャケットがとにかく可愛い、可愛すぎる、この世のものとは思えないくらい可愛いのと、収録曲のほとんどが海外アーティストとの共作なので1、2枚目と雰囲気がガラっと変わります。

YUKI東京事変と同じく、3枚選ぶのに非常に苦労したアーティストでした。素晴らしい曲が沢山入ったアルバムが多すぎて、かつJUDY AND MARYとの競合にはならなかったので10位以内にも2枚入っております。贔屓しすぎですね。また、誤解がないように書いておくと、決してJUDY AND MARYのアルバムがイマイチというわけではありません。私がベストアルバムを聞きすぎてしまっていたせいでアルバムに関しては選べるほど聞き込んでいなかったのです。 JUDY AND MARYも素晴らしい曲、精神的に救われた曲が数多くあります。『最高の離婚』を全話視聴した後、ブログにまとめたいと思っています。

『joy』は全体的に、テンションが高くて肯定的な曲が多い印象です。また、YUKIの哲学が色濃く出ています。「ハローグッドバイ」は時の流れに身をませよう、自分を大事にしよう、みたいなメッセージがすごく嬉しいし救われる。「WAGON」は「思えばいつもそうだった」という歌詞が象徴的な、疾走感のある曲です。ドライブしながら大声で歌いたい、そんな曲・・(運転できないけど)「カラフルな歌は満開だ」とか、すごくYUKI節って感じです。

泣けない午後に目覚めて ため息と空気を吸いこんで

吐き出せば空高く飛んで くもり空を雨に変えやがった

 

 

11位 『勝訴ストリップ椎名林檎(2000年)

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勝訴ストリップ』は、こんなこと書くと身も蓋もないですが、「ギブス」「罪と罰」「本能」の3曲が入っていることが奇跡すぎて11位です。

このアルバムに小学生のころに出会ってしまったせい?おかげ?で私の性癖は屈折してしまった、と言っても過言ではありません。とはいえ、椎名林檎を聞くことは一種にイニシエーションのようだと思うので、いつ、どの作品に出会うか、ただそれだけですよね・・大袈裟にとらえすぎたかもしれません。

私は『平成風俗』という2007年発売のアルバムから椎名林檎にはまったので、このアルバムがきっかけではないのです。『平成風俗』はなんかオシャレだけど英語の歌詞が多くてよく分からない・・と思っていたところ、『勝訴ストリップ』にいきつきました。なるほど、日本語の歌詞なのに全然分からない・・分からないけど、断片的に分かるかもしれない、いや、そもそもこんなにも子供の自分が理解できることなんて何一つないんじゃないか・・(年相応のものを聞いていないという自覚は当時ありました)また、椎名林檎は当時そこまでメジャーではなく、朝ドラの主題歌やW杯に曲を提供するまではそこまで市民権を得ていなかったように記憶しています。なので、小学生ながら椎名林檎を聞いていたことは家族から非難され、センスがないと言われました。そんな家族が椎名林檎NHKへの貢献を目にし、手のひらを返したころには私の椎名林檎への熱はそこまで高くなくなってしまいました。直近だと、それぞれ映画とドラマの主題歌になった「幸先坂」「おとなの掟」はスマッシュヒットでした。

 

 

今日は一旦、ここまでにしようと思います。色々思い出しながら書いたので、思いの外時間がかかりました。でも、楽しかったです。音楽を聞くと昔見ていた景色とか思い出とか匂いとかが蘇ってきて、不思議だなと思います。次回は10位〜6位について書きます。

 

ちなみに中日は5−9でヤクルトに負けました。巨人のマジックが4になってしまいました。来週には巨人の優勝が確定しそうですが、今シーズンはAクラスで終わるよう最後まで頑張ってほしいところです。

今日は良い天気だったので昼間に布団を干したりクリーニングを出しに行ったり、本屋に行ったりしました。今月のカーサブルータスの特集が「日本のBEST美術館100」だったので購入。先週友人と美術鑑賞に行ったのがとても楽しくて、早くまた行きたい、他にも情報を蓄えて提案したいのでじっくり読み進めます。夕方から夜にかけてジムに行き、サウナに入り、帰ってご飯をつくり食べその後記事を書き始めました。もう11時40分・・明日は何もないけど、本読んで眠くなったら寝ます。髪も体もジムで洗ってきたのでもう寝る準備は整っている。ジムにサウナとシャワーがあってよかった。

最近、ミストサウナに入ると蒸し栗になった気持ちになる。ドライサウナではその気持ちにはなれない。

なんの話?

おやすみなさい。

『ナイン・ストーリーズ』感想と考察(第1部)

 

 はじめに

本記事ではJ.D.サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』の感想と考察を書いていきます。

ナイン・ストーリーズ』はタイトルの如く9つの物語が収録された短編集で、『フラニーとズーイ』の「ズーイ」冒頭部分の説明書きで登場する、グラース家の人物たちが登場する話が多く含まれています。

この短編集では様々な年齢の子供が登場するため、子供が作中でどのように作用し、また、登場人物にどのような影響を与えているかを考えていきたいと思います。

なお、感想を書き始めたら一つひとつのボリューム感が増えたため、『ねじまき鳥クロニクル』よろしく3部構成で記事にします。

途中別の記事を挟んでしまうかもしれまんが、3部まで必ず書ききります。

 

感想を書き始める前に、『フラニーとズーイ』より引用したグラース家の兄弟たちについて記しておきます。

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〈グラース家の兄弟たち〉

長男:シーモア

次男:バディー

長女:ブーブー

三男:ウォルト

四男:ウェイカ

五男:ズーイ

次女:フラニ

※1 『フラニーとズーイ』ではシーモアとウォルトは死去

※2 ウォルトとウェイカーは双子の兄弟

※3 シーモアとフラニーはおよそ18歳差

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以下、ネタバレを含みます。

 

(1)バナナフィッシュにうってつけの日

まず、時間や部屋番号から婦人雑誌の記事タイトルまで、やけに詳細に書かれた冒頭部分から始まり、シーモアの妻・ミュリエルと彼女の母親の会話の場面に自然な形で入っていきます。

(ちなみに、フランス文学研究者の中条省平氏は『小説の解剖学』の中で、対象との距離を上手く保つ例としてこの物語の冒頭部分を引用し、具体的にどのような点が優れているのかを解説してます。情景描写からカメラ・アングルの変化を表現しており、いわば映画のような描き方をしている点を評価していました。)

ミュリエルと母親の会話から、シーモアが彼女の親族の間で鼻つまみ者にされていることが分かりますが、ミュリエルとしては放っておいて欲しい、シーモアは精神異常者ではないと主張します。

 

その後、場面はシーモアとシビルのやりとりに切り替わり、2人の噛み合っているのかいないのか、いまいちつかめない会話のシーンが続きます。

(話が少しずれますが、「シーモア・グラース」を「もっと鏡見て」と書くところは、「コネティカットのひょこひょこおじさん(uncleとankleをかけている)」と通ずるものがあるのかもしれない・・と思いました。サリンジャーの遊び心なのか、英語圏ではこのような同音異義語的言葉遊びはよくあるものなのか、原文ではどのように書かれているのかが気になります。)

シビルはシーモアに対して、他の女の子に優しくしないでと言ったり浮き輪に乗せてもらうなど、シビルにとってシーモアは歳の離れたボーイフレンドのような存在のようです。

一方シーモアは、シビルはあくまでも小さな女の子、しかし自分を好いていてくれるという認識があるように思えます。シーモアがシビルの土ふまずにキスするシーンはかなりドキっとしましたが(自分がシビルの親だったらかなり怖いと感じるだろうなと思ったので)シビルへの精一杯の愛情表現のように思いました。

かなりマニアックな部位へのキスだと思ったので何か意味があるのかしらんと思いネットで調べたところ、足の裏にするキスには「忠誠」の意味があるという記事を見つけました。これに関してはもう少し情報を集めたいです。

 

シビルと別れたシーモアは、エレベーターの中で見ず知らずの女性に対し、自分の足を盗み見ないでくれと言いました。このシーンは、シーモアが精神異常者であることへの裏付けと、身体の中でも特に足への意識が強いことを表す役割を果たしています。

そう考えるとシビルの足首をつかむシーンや土ふまずへのキスも、シーモアの足への意識と関連しているような気がします。

足は自分の身体を支え、歩行を可能にする部位です。シーモアは常に、自分が誰かに足元をすくわれるのではないかと思い込んでいたのではないでしょうか。

そのため、子供であるシビルには安心して自分を委ね、エレベーター内で一緒になった女性には攻撃的な言葉をかけたと考えました。

精神と足の結びつきについても、もう少しきちんと調べていきたいところです。

 

(2)コネティカットのひょこひょこおじさん

この物語は、同窓のメアリとエロイーズの会話が大部分を占めます。専業主婦のエロイーズの家で、2人はとりとめのない学生時代の思い出話をします。

会話の最中、エロイーズの娘・ラモーナが登場します。彼女にはジミー・ジメリーノというイマジナリーフレンドがいて、いつも彼と一緒に行動していますが、そのことにエロイーズは「付き合いきれない」と言います。

エロイーズは作中で子供心を分かってあげられていない母親として描かれていますが、もしかしたら理解しようとする努力はしたのかもしれません。しかし、エロイーズの精神状態に余裕がなかったり、ラモーナの行動が常軌を逸していたりする関係で、「付き合いきれない」状態になってしまった可能性も考えられます。

 

2人の会話の中で、エロイーズは学生時代に好きだったウォルトという男性の話をします。彼は、エロイーズのことを「しんから笑わせてくれる」唯一の男性で、「バナナフィッシュ」の感想でも少し触れた、「かわいそうなひょこひょこおじさん」の話もここで持ちあがります。

エロイーズはお酒の影響もあるのか、ウォルトが亡くなった話をしメアリの前で泣いてしまいます。昔好きだった人が亡くなったとしても、時間が随分たっているのであれば泣くほどのことはないと思うので(まだ自分は幸いにも、過去好きだった人が死んだという知らせを受けていないので想像に過ぎませんが)深く愛していたということが読み取れます。それと同時に、今の自分の生活との過去の美しい思い出の乖離を感じているのかもしれません。

 

また、ラモーナはエロイーズに、ジミー・ジメリーノは車に轢かれて死んでしまったが、ミッキー・ミケラーノという新しいイマジナリーフレンドが既にいることを話します。

ラモーナのイマジナリーフレンドは代替可能で、例え死んでしまってもまた新しい友達をつくれば一緒に遊び、眠ってくれる。しかし、エロイーズが自分の思い出の中でウォルトを生かし続けることには限界があります。なぜならウォルトの記憶は過去の産物であり、死んでしまったウォルトが自分の中でアップデートされることはない、ラモーナのようにイマジナリーフレンドのような立ち位置にすることも不可能という現実を、ラモーナとの会話の中で叩きつけられ涙が止まらなかったのではないでしょうか。

子供の無限の想像力と、現実の中で生きるしかない大人の悲しい対比が印象的でした。

 

(3)対エスキモー戦争の前夜

クラスメートのジニーとセリーナが、タクシーで相乗りをするシーンから物語が始まります。

セリーナからタクシー代をもらえていないジニーは我慢の限界、家までついていくからこれまでのタクシー代を払って欲しいと訴え、家までついていきます。

セリーナの家での場面が長いので、セリーナの家に連れて行くまでのきっかけとしての前段階ですが、子供同士の金銭問題から話が始まるなんて突飛だなと思いました。

 

セリーナを待つ間、ジニーはまずセリーナの兄・フランクリンに話しかけられます。そして、フランクリンはジニーの姉・ジョーンのことを知っていると言います。この周辺の会話をきっかけに、フランクリンに対する印象が「他人」から「ちょっと面白い他人」に変化していることが読み取れます。

フランクリン側もジニーに打ち解けたのか、食べかけのチキン・サンドをあげるといったり自分のこれまでの話をしたりします。フランクリンが飛行機工場で働いていた話も持ち上がりますが、彼にとってはいい思い出として残っていないようです。

 

フランクリンが自室に戻った後、彼の(恐らく)友人・エリックが訪ねてきて、ジニーに話しかけます。エリックは顔が整っているとわざわざ記載があるくらいだが、話が長く聞かれている以上のことを答えるため若干厄介な印象を受けます。ここで、整った外見と少し厄介そうな人柄のギャップを示したかったのでしょうか。

ここでも飛行機工場の話がでてきますが、エリックにとっても悪い思い出として残っている様子でした。

個人的には、その時代のアメリカ人男子が飛行機工場で働いていたことの歴史的意味が気になりました。

 

ラストシーンで、ジニーがセリーナにお金はやっぱりいらない、そして、夜にまた遊びにくるかもしれないと言い残して家を去ります。これは、ジニーがフランクリンかエリック、どちらかあるいかどちらにも好意を抱いたことの示唆なのでしょうか。

こちらは子供の役割も追求できず、感想らしい感想も書けませんでした。。力及ばず、無念なりけり。

 

次回は「笑い男」、「小舟のほとりで」、「エズミに捧ぐ」の感想を書きます。

 

おやすみさない。

 

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〈参考文献〉

中条省平『小説の解剖学』(2002年、筑摩書房

『誰も知らない』感想

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 (0)動画サブスクリプションサービス登録への道

以前から動画のサブスクリプションサービスに登録することの憧れはあったものの、定額で見放題とはいえ映画って月に何本も観れるものなのだろうか、また、ドラマを全くと言っていいほど見ない自分にとってメリットはあるのだろうか・・と思い登録をしていませんでした。

しかし、4月に書籍版の『ハイパーハードボイルドグルメリポート』を読み、この本の完成度の高さに圧倒され、どうしても過去放送分を見返したくなりました。『ハイパー』は有名なサービスほぼ全てで視聴可能なため、1ヶ月間様々なサービスを比較検討してみましたが、結局Amazonプライムに登録しました。(理由はゴジラシリーズが全て観られるという情報を得たためです。)

『ハイパー』は1回30分ほどの番組のためすぐに観終わってしまい、ゴジラシリーズを順番に見ていくかなと思っていた矢先、フィルマークスの「いつか観たい」リストに入っていた映画がAmazonプライム内に数多くあることが分かりました。

 

これまでずっと、映画といえば部屋を暗くし、比較的大きな画面かつノンストップで見なければいけないという自分なりのルールがありました。しかし、読書だって中断して、読んで、を繰り返してラストまでいくのに、映画でそれをしてはいけない理由はないのではないかと思い、いわゆる読書方式で映画を小分けに観る、ということを6月8日からやってみました。

前置きが長くなりましたが、その試み第1号映画が是枝裕和監督の『誰も知らない』です。

 

 (1)子どもの欲求レベルについて

最近、子どもが出てくるアメリカ文学作品(『誕生日の子どもたち』、『ナイン・ストーリーズ』など)を読んでいたため、無意識に子どもが出てくる作品を求めていたのかもしれません。

前情報としては、是枝裕和が監督の作品であること、主演が柳楽優弥であること、過去にあった子どもに関する事件が元ネタになっていることの3点くらいでしたが、鑑賞後かなり色々考えさせられる映画だったので感想として残したいと思います。

ここから先はネタバレとまではいきませんが、内容の本質に触れる部分もあるため、読む際はお気をつけくださいませ。。

 

まず冒頭部分から出てくる柳楽優弥の顔が子どもとは思えないくらいのセクシーさで、一発で心を奪われました。何も言わなくても何かを訴えかけてくるような目力と、反対に涼しげな口元(書いていて自分でもおかしな表現だと思いますが、実際に見てみると本当にそうなのです)のバランスが素晴らしい。言うなれば、クラスにこんな男の子がいたら好きになるけど敷居が高すぎて気軽には話しかけられないような顔です。

そんな端正な顔立ちの男の子・明が、学校に通わせてもらえず家で親の代わりをするというのが一貫して続く話なので本当に何とも言えない気持ちになるのです。

母親に買い与えられたであろう漢字ドリルに書く字は、字というよりも不安定な線をいくつも引き重ねた塊。分からない漢字を辞書で調べても、辞書に書いていることが分からないから正解を導き出せない・・・学校に通わせてもらえず、学がない親のもとで育った12歳の明の現状を、この短いシーンから読み取れ悲しくなりました。また、別のシーンにはなりますが近所の公園で明がボールを拾い、上に投げ自分でキャッチすることを繰り返す場面は一人で遊ぶことしか知らないことを象徴づけているように思いました。

 

明には年の近い京子という妹と、園児ほどの年齢の茂とゆきという弟、妹がいました。それぞれ母親は同じで父親が全員違うという設定だったため、顔の系統がバラバラな子どもを採用したのでしょうか、特に明と京子は顔が全然似ていない。

明が誰が見ても目を惹かれる容姿なのに対し、京子の顔だちは淡白で、話し方にも子どもらしいパワーや抑揚がないところがとても印象的でした。時々、大人でもなかなか出ないような低くて冷たい声で呟き、ドキっとさせられました。

明と京子は親に「学校に行きたい」と訴えるシーンがありますが、茂とゆきはそのような要求をしない。茂とゆきの望みはマズローでいうところの「生理的欲求」で止まってしまい、「社会的欲求」のレベルまで至っていないということが分かります(年齢的な観点から「社会的欲求」まで至らないのは致し方ないのかもしれませんが、家の中での先を見通せていない行動から「安全欲求」についてもほぼ無いように思えました。これは、母親が2人の存在を隠し、家から出ないように躾けていたこととも繋がっていると考えられます。)

何らかの経緯で外の世界を知っているため「社会的欲求」のある明と京子、「生理的欲求」で止まっている茂とゆきの対比はこの作品で外せないポイントだと思います。

 

 (2)新しい子どもの社会と翳りゆく部屋

母親が4人の子どもを家に置いて帰らない場面で着目すべきは、子どもたちに新しくできるコミュニティです。

4人の中で唯一外出が許されている明は、外の世界で春休み中の同学年男子たちと出会い、一緒に遊ぶようになります。明は友達ができたことを喜びますが、彼らを自宅に出入りするようになり4人をとりまく環境は一変します。

大人がいない明の家は何時間ゲームをしても咎められることがない、子どもたちのユートピアとなります。しかし、そこまで広くない部屋に4,5人の男子たちが入ってくると京子、茂、ゆきの居場所はなくなります。

意図せず弟・妹たちの居場所を奪ってしまうきっかけをつくった明は罪悪感を覚え(ているように描かれ)ますが、友達を失いたくはない。明と京子が家事を協力し合い清潔に保たれていた部屋はどんどん汚くなり、ゴミ屋敷のようになっていきます。(『万引き家族』でも思いましたが、是枝監督がつくる空間での表現は本当に素晴らしいと思います。)

春休みの期間が終わり、中学生になった友達と再び遊ぶ口実をつくるため、なけなしのお金で新しいゲームを買いますがやんわりと断られてしまいます。そしてその後、同学年男子たちが明の家に足を運ぶことはありませんでした。

ここまでかなり長く書いてしまいましたが、映画ではかなり短くまとめられています。しかし私はこの場面が4人にとってかなりイレギュラーな事態で、黙って受け入れているようで誰も受け止められておらず、それが生活空間の不潔さに繋がっていく。そして、明が変わっていくきっかけになる大切な場面だと思い、詳細に書いてみました。

 

 (3)明の立場の変化

同学年男子や、いじめられ不登校になってしまった女生徒・紗希との出会いにより、明は外の世界での楽しさ、悲しさを知っていきます。それと並行し、生活インフラをとめられるほど4人の生活はどんどん困窮していきます。また、明は声変わりが始まり、心も少しずつ大人に近づいていきます。(服の匂いを嗅ぐシーンから思春期の始まりを感じました)

去年の冬には優しかった明の口調も、翌年の夏には大人顔負けの激しく、下品なものになります。それは様々な要因が複雑に絡み合った結果と言えますが、明の立場が自分たちを捨てた母親(=一家の主人)にシフトしている点も見逃せません。

特に、外で遊ぶ茂に対して明が「もう帰ってくんな」と言うシーンは、明が4人兄弟の中の一人ではなく、一家の主人に切り替わったことを決定づける場面だと思います。

母親不在の一家では、年長の明が一家の主人にならざるを得なかったのだと思いますが、それを引き受けることはあまりにも荷が重く、社会から断絶されている状況も踏まえると非常にアンバランスで、それが京子、茂、ゆきへの態度や発言に出ていたと思います。

子どもがあのような演技をすることで見え辛くなっていますが、明の3人への発言を大人が子どもに対するものと置き換えると、完全に躾けの域を超えた、児童虐待の現場なのです。そこまでを見越してあの場面を構築しているのではないでしょうか。

 

 (4)ラストシーンについて

私は話の流れ的にも、『万引き家族』のようなラストシーンになると思っていたので、最後まで観たときにこれで終わり・・なのか?と思ってしまいました。

そして、シンプルなエンドロールが流れる中、じくじくと胸が痛み、これは1週間くらい引っ張っちゃうやつだなあと独り言ちました。

ラストシーンについては是枝監督も様々なインタビューで語っておりますので作り手の意図については割愛しますが、私はあんなに切ないラストシーンはないと思いました。

陽炎がゆらめくような暑い昼中に横並びで歩く兄弟たちの日常はもう長く残っておらず、終わりに近づいていることが明確だからです。

このような視聴者側の胸の痛みとは相反して、スクリーンの中の兄弟たちはこれからも今まで通りの日常が続くと信じて疑っていないように見え、その温度感の差が見る側を更に切なくさせます。最後の最後で子どもの無垢さにやられるわけです。

 

『誰も知らない』は、観る人が日頃何に関心を寄せているかによって感想のポイントが異なる映画だと思います。

感想を書いてみて、今自分が何に関心を寄せているのかが少し分かった気がします。

 

充実した有給でした。おやすみなさい。

 

1954年版『ゴジラ』感想と考察(※先行研究の引用多め)

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 はじめに

ゴジラ』は、1954年に公開された日本初の本格怪獣映画です。

プロデューサー・田中友幸、監督・本多猪四郎、特技(特撮)担当・円谷英二らが中心となり制作し邦画初の全米公開映画となったことからも、日本映画の歴史を語る上では外せない映画と言えます。

 

自分はかねてより庵野秀明のファンでしたので、「ゴジラ」や「特撮」については多少知識がありましたが、実際にゴジラシリーズを初めて観たのは2016年に公開された『シン・ゴジラ』でした。

そこからゴジラシリーズの世界にはまってしまい、今に至るわけですが(いつか『シン・ゴジラ』についての記事も書きたいと思っています)こんなに面白く奥深い作品のシリーズ第1作は一体どんなものなのかと思い、当時大学2年生だった自分はTSUTAYAでDVDを探しました。

 

DVDを手に取り思いました。「白黒映画か・・」

もともと、読書とは違い自分のペースでの鑑賞が難しい「映画」があまり得意ではありませんでした。また、天候や土地など一つの事象が気になるとそれについて色々と思いを巡らせてしまい、気づいたら全然違う場面になっていた、なんてことは今でもよくあります。

ただでさえ映画鑑賞が不得手なのに、白黒映画なんて最後まで理解して見通せるのだろうか・・と思いながら鑑賞し始めましたが、それは杞憂でした。

第二次世界大戦の記憶が色濃く残る1954年に、「ゴジラ」という架空の怪獣を媒介してはいるものの、あそこまで直接的に日本人の心の傷をえぐる映画は、もはや娯楽の域を超えていると衝撃を受けました。

そして、「ゴジラ」が闊歩するルートにも背景があり(「あると言われている」と言った方が正しいかもしれません。既に様々な論文が発表されておりますので今回は説明を省きます)、この映画を通して作品と土地の関係性の虜になりました。

ゴジラ』は一見とっつきにくそうな古い映画のイメージかもしれませんが、まっさらな気持ちで見ても特撮の完成度の高さから十分楽しめますし、時代背景や土地にフォーカスしてみても面白く、色んな角度から見て楽しめる映画なのでオススメです。

 

ここからは作品の感想を交えつつ考察を書いていこうと思います。

まず、「ゴジラ」という存在そのものについて考えます。

映画『ゴジラ』に現れる「ゴジラ」は「水爆実験の影響によって姿を現した古代生物である」と定義されていますが、この定義以外にも「ゴジラ」は様々な特徴や、歴史的事実との関連性を孕んだ存在であると言えます。

本記事では、先行研究を踏まえた上でゴジラに対する自分なりの解釈を加えていきます。

次に、『ゴジラ』のラストシーンで「ゴジラ」を消滅させた芹沢が自ら命を絶つに至った理由を、主要登場人物の一人である尾形と対比しつつ、山根博士の娘である恵美子との関係性や彼女に対する想いを追求した上で考察していきます。

最後に、上記のまとめと今後の展望を述べ、終了とします。

以下、ネタバレを含みまのでご注意くださいませ。

 

 

 (1)ゴジラに対する解釈

まず、「ゴジラ」の名前の由来から紐解いていきます。「ゴジラ」という名前は、大戸島で昔から言い伝えられている「呉爾羅伝説」からとったものだと映画内で語られています。

この伝説は、海の食べ物が無くなると怪物が島に上陸し、牛や人を食い荒らすというものであり、昔は若い娘を生贄にして海に流したと伝えられていますが、今は厄払いのための儀式が残っているのみです。

大戸島に「ゴジラ」が上陸した後、山根博士率いる調査団は、大戸島に被害を加えた原因を探る為、巡視船「しきね」に乗り大戸島を目指します。調査の後、山根博士は国会の公聴会ゴジラを「ジュラ紀から白亜紀にかけて、極めてまれに棲息していた海棲爬虫類から陸上獣類へ進化しようとする中間型の生物」と定義します。これが、ゴジラの生物学的な位置づけです。

 

長山靖生氏は、『ゴジラエヴァンゲリオン』の中で、「ゴジラ」はアメリカ軍がビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船・第五福竜丸の乗組員らが被曝し重篤な症状に陥る事件から着想を得て作られた物語だと述べています。

さらに長山氏は、「ゴジラ」は太平洋戦争で多くの日本兵が亡くなった南方からやってくることと、「ゴジラ」が東京を破壊する際、皇居に危害を加えなかったという二つの点から、「ゴジラ」は戦争で亡くなった日本兵という説を提唱しています。

(※上記の「ゴジラ」=日本の英霊説は長山氏以外も述べておりますが、誰が起源なのかは追いきれず孫引きになっている可能性があります、すみません。また、ゴジラシリーズ第25作『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』の作中では「ゴジラ」=日本の英霊説が語られており、これがもともと公式の設定だったのか、はたまた説を逆輸入したのかはよく分かっていない部分でもあります)

また、「ゴジラ」が日本を襲う姿が戦争末期に東京を襲った米軍の空襲や艦砲射撃を彷彿とさせることや、「ゴジラ」の背中についているサンゴ礁のような背びれからビキニ環礁のイメージを基にしていると長山氏は考察しています。

 

一方で、小野俊太郎氏は『ゴジラの精神史』の中で、山根博士の「ゴジラの目に投光器の光を当てるなと指揮官に伝えてくれ」という忠告は、爬虫類の性質をとらえたものであり、これは「ゴジラ」を生物として示すねらいがあると述べています。

また、「ゴジラ」は昼間海中に身を潜め夜に上陸し町を破壊する点と、映画における「ゴジラ」の恐怖は人口的な武器である潜水艦や機雷の形で海の中からやってくる現実の危機が下敷きになっていた点から、「ゴジラ」の襲撃は東京大空襲の記憶と結びつくと論じています。

さらに、「ゴジラ」が二回目に本土上陸した際に破壊されたものは「松坂屋デパート銀座店」、「服部時計店」、「日本劇場」、「国会議事堂」、「テレビ塔」、「勝鬨橋」であり、これら全ては1923年の関東大震災後に建てられたものであったと小野氏は述べています。

 

上記までの引用に加え、1954年版『ゴジラ』では、「ゴジラ」が電車や自動車など、人が長距離を移動するための手段を攻撃する場面が散見されることに気づきました。

これらのことから、「ゴジラ」は復興の象徴とも言える建築物や、新しい文明開化としての乗り物を次々と破壊することによって、日本の発展及び進行を止め、空襲以前の状態に戻そうとしているのではないかと考えました。

 

また、「ゴジラ」が上陸するタイミングに着目して映画を観ることによって、ある共通点を見出しました。その共通点とは、「ゴジラ」は「人間が何かしらの働きかけをした結果現れる」という点です。

ゴジラ」が貨物船「栄光丸」と救助に向かった船を襲った後、大戸島近郊の海で時化が続きました。そのため大戸島では厄払いのための儀式が行われ、その日の夜に「ゴジラ」が大戸島に上陸しました。

また、「ゴジラ」が海中に潜んでいることを知った政府は爆雷攻撃をしますが効果は見られず、その後「ゴジラ」は東京に上陸します。

ここで重要なのは、「ゴジラ」は物理的な働きかけだけではなく、呪術的な、言い換えると精神的な働きかけも察知することができるということです。

これは、戦前の日本兵が現代の日本人以上に、教育勅語軍人勅諭などの精神論的なものに深く傾倒していたこととも結びつけることができ、先人たちの考察同様、やはり「ゴジラ」=戦争で亡くなった日本兵という説は正しいのではないかと思いました。

 

 

 (2)芹沢の自殺の理由 

考察を進める前に、主要登場人物の情報を整理します。

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尾形秀人:海運会社の社員。山根博士の愛娘・恵美子と付き合っている。(尾形を演じた宝田明はその後度々ゴジラシリーズに出演し、ファンを沸かせている)

芹沢大助:山根博士の愛弟子で薬物科学者。戦争で右目を失い眼帯をしている。恵美子の元婚約者。

山根恵美子:山根博士の愛娘。尾形と付き合っているが世間からは芹沢との婚約を噂されている手前、尾形との関係を公にできていない。

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映画のラストシーンで、自らが開発したオキシジェン・デストロイヤー(水中酸素破壊剤)を使い、「ゴジラ」を死滅させた芹沢は、そのまま自分の命も絶ってしまいます。

作中の芹沢の台詞のみに着目すると、芹沢が自ら命を絶った理由は、芹沢が生きているとオキシジェン・デストロイヤーを使った殺人兵器の開発・量産をさせられてしまう可能性が高く、それを避けるためであると読み取ることができます。

これが表向きの理由だとすると、長山氏は芹沢の自殺について遅ればせの特攻であり、芹沢が本土近海で死ぬのは先に死んだ戦友らに対する殉死だったということが物語に隠された本当の理由であったと述べています。

しかし、芹沢が戦争で亡くなった友人について語る場面は作中のどこにも無いため、この論はやや飛躍していると思いました。

ここからは、芹沢と尾形を対比しつつ芹沢が自殺に向かった理由を考察していきます。

 

まず、尾形と芹沢では、自身の中での「ゴジラ」の位置付けが異なります。

尾形は「ゴジラ」を何度も目の当たりにしていたものの、常に気を揉んでいることは「ゴジラ」の出現よりも、自分と恵美子の結婚についてのように見受けられます。

つまり、尾形にとって「ゴジラ」そのものが悩みの種ではなく、あくまでも「ゴジラ」は「出現によって自分のプライベートを邪魔する存在」、という位置付けです。

一方、科学者である芹沢にとって「ゴジラ」は0か100かの位置付けで、その間は存在しません。山根博士に声をかけられる程度のことはあるかもしれないが、上手くやり過ごせば「ゴジラ」に一切関与しないことも可能。自分が開発したオキシジェン・デストロイヤーを使用し殲滅も可能という立ち位置です。

また、加藤典洋氏は『さようなら、ゴジラたち』の中で、オキシジェン・デストロイヤーを使って「ゴジラ」を倒しに行く場面で、尾形は鉢巻を漁師がやるあんちゃん巻きのようにしており、芹沢は鉢巻が特攻隊の巻き方になっていたと指摘しています。

(これは劇中でしっかり確認され、手の込んだ演出だと感じました。このような表現方法から登場人物の心境を垣間見せられるのは映画ならではの面白さだと思います。)

 

このことからも、「ゴジラ」に命がけで挑んだ芹沢と、あくまでも仕事の一環として「ゴジラ」を倒すことに関わった尾形との意識の差が読み取れます。

もちろん、オキシジェン・デストロイヤーという武器を開発したのは芹沢ですので、「ゴジラ」に対し直接的に手を下すことは芹沢にしかできません。そのため、意識の差があることは当然のこととも言えるかもしれません。

しかし、尾形は最後まで「ゴジラ」をいずれ過ぎ行く天災のように捉えていたことも否定できません。作中で芹沢は、オキシジェン・デストロイヤーを完全な形で作用させるため海に潜ると言います。それに対し、尾形は素人一人で海には潜らせられないと言い、芹沢をアシストする形で海に入ります。つまり、尾形は芹沢が海に入ると言わなければ、「ゴジラ」のいる海には入らなかったとも言えます。尾形は芹沢と共に生きて沖に上がれると信じて疑っていないような立ち振る舞いですし、ラストシーンで「ゴジラ」が苦しんでいる姿を恵美子と抱き合いながら見つめる姿は非常に象徴的であると感じます。

 

また、芹沢と恵美子との関係性、芹沢の恵美子への想いも見落とせないポイントです。

芹沢は恵美子に対し、「僕の命がけの研究」と前置きした上でオキシジェン・デストロイヤーの実験を見せ、秘密を共有します。しかし、恵美子は良心の呵責からオキシジェン・デストロイヤーのことを尾形に打ち明けます。

また、芹沢は「オキシジェン・デストロイヤーが社会の役に立つようになるまでは絶対公表しない」と言ったものの、恵美子と尾形の説得に根負けし、オキシジェン・デストロイヤーを「ゴジラ」の殲滅に使用することを承諾します。

芹沢と恵美子の婚約は過去に破談となったようですが、少なくとも芹沢の中には恵美子を諦めきれない気持ちがあったように思われます。

しかし芹沢は戦争で右目を失明、眼帯付近は皮膚が焼けただれ醜い容姿となり、残されたのは薄暗い地下の研究室と世界を滅亡に導きかねない殺人兵器のみという状態。対する尾形は恵美子の現婚約者、健康体で快活に地上で働く、容姿が整った好青年。どう転んでも芹沢が尾形に勝てる要素はありません。

芹沢は恵美子に自分の秘密を共有し、恵美子との絆を試すようなことをしますが、結局恵美子は尾形に打ち明けます。そして、オキシジェン・デストロイヤーを「ゴジラ」の殲滅に使用することを決め、尾形と恵美子に対し「君たちの勝利だ」と言います。

この瞬間、芹沢は「命がけ研究」と恵美子の二つを同時に失うことが決定的になりました。

芹沢にとっての「命がけの研究」、言い換えれば自身のアイデンティティーの喪失と、最後の望みをかけた恵美子の喪失より自ら死を選んだのではないでしょうか。

 

 

 まとめ

本記事では、ゴジラに対する自分なりの解釈と、芹沢が自殺した理由について考察しました。

ゴジラ」についての解釈は様々なものが存在しますが、1954年版『ゴジラ』に登場する「ゴジラ」は、戦後9年という点や、論の中で述べた物理的・精神的な働きかけに敏感であるという点から、やはり戦争で亡くなった日本兵のメタファーであろうと思います。

また、芹沢の自殺の原因は恵美子が深く関わっていると結論づけましたが、今回の考察では登場人物の関係性を中心に論じてしまったため、歴史的な観点(戦後日本での失明者の立ち位置)や芹沢の諸外国との関わりをより深く読み解くと、また異なった結論を導き出すことができたかもしれません。

自分で書きながら何ですが、かなり芹沢に気持ちを入れながら書いてしまいました。

もう少しフラットな視点で論じられるようになることが今後の課題であります。

 

1954年版『ゴジラ』は戦争の記憶を呼び起こす内容であり、一見復興したと見えるものも簡単に滅んでしまう可能性があるということを暗示しているような映画だと思います。

最後に一点残させて頂くと、作中で「ゴジラ」が海に身を潜めていることを知っていながら、大きな船に乗った一般市民が東京近郊の海をナイトクルージングする場面がありました。

この場面は1954年当時の、敗戦という大きな過去傷を忘れ浮かれきっている日本人を揶揄したものであり、『ゴジラ』は、このような日本人の姿勢に対して警鐘を鳴らしたかったのではないでしょうか。

 

 

 最後に・・

この記事は先行研究の引用が多いことからも察しがつくかもしれませんが、大学時代のレポートをリライトしたものです。

自分なりには過去頑張って書いたつもりでしたが、いざ読み返すと穴だらけでリライトにものすごく時間がかかりました。

仕事中もこの記事の辻褄の合わなさや、芹沢への想いが強すぎることへの反省から何度も文章を練り直し、結局記事を投稿してから約2週間後の6月20日にやっと完成に至りました。

こだわりすぎても疲れてしまうので、もう少しサクッと書いてよっぽどのことがなければ修正しなくてもよい状態までもっていきたいと思います。

以上です。

 

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〈参考文献〉

小野俊太郎ゴジラの精神史』(彩流社、2014年)

加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』(岩波書店、2010年)

長山靖夫『ゴジラエヴァンゲリオン』(新潮社、2016年)

 

 

 

 

 

    

 

本ブログについて

25歳になってから数日が経ち、初めてブログを開設してみました。

本ブログでは自身が興味深い、書き留めたいと感じたことを記事にしていこうと思います。

主には本、映画、音楽、テレビ番組などについて書き ゆくゆくは美術や舞台についても書いていきたいです。

また、大学時代に書いたレポートや論文もリライトし、記事にしていこうと考えています。

 

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 最近「テレコ」という言葉を知り、早速ブログタイトルに使ってみました。

自分の中の流行りワードは栄枯盛衰が激しく、なぜ気に入っていたかも忘れがちなので

ここに書き留めておこうと思います。

 

「テレコ」と口にしたときなんとなく可愛いのと、「入れ違い、すれ違い、食い違い」という意味のアンバランスさが気に入りました。

 あとは、自分の好きな感覚の一つに「すれ違い」があるので使ってみました。

 

例えば、本や映画、世間で流行っていることなどについて人と話し合った時に、自分とは違う感想が出てきたり、心を動かされるポイントが異なることが分かるととても嬉しくなります。

もちろん話し合いの内容によっては意見が一致したほうが良いものもありますが、「自分と他者は異なる存在と分かる」は人間の醍醐味だと思っています。

また、考えがぴったり合ったときの喜びもひとしおです。

 

ここまでの話は半分本当でですが、もう半分は諦めの気持ちもあります。

時々、どうしようもないくらい他人に自分のことを分かってもらいたくなりますが、願ってもかなわないので自戒の念も込めてこのタイトルにします。

 

まずは読みやすい文章を書くことを目標に頑張ります。

 

以上です。