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『ナイン・ストーリーズ』感想と考察(第1部)

 

 はじめに

本記事ではJ.D.サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』の感想と考察を書いていきます。

ナイン・ストーリーズ』はタイトルの如く9つの物語が収録された短編集で、『フラニーとズーイ』の「ズーイ」冒頭部分の説明書きで登場する、グラース家の人物たちが登場する話が多く含まれています。

この短編集では様々な年齢の子供が登場するため、子供が作中でどのように作用し、また、登場人物にどのような影響を与えているかを考えていきたいと思います。

なお、感想を書き始めたら一つひとつのボリューム感が増えたため、『ねじまき鳥クロニクル』よろしく3部構成で記事にします。

途中別の記事を挟んでしまうかもしれまんが、3部まで必ず書ききります。

 

感想を書き始める前に、『フラニーとズーイ』より引用したグラース家の兄弟たちについて記しておきます。

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〈グラース家の兄弟たち〉

長男:シーモア

次男:バディー

長女:ブーブー

三男:ウォルト

四男:ウェイカ

五男:ズーイ

次女:フラニ

※1 『フラニーとズーイ』ではシーモアとウォルトは死去

※2 ウォルトとウェイカーは双子の兄弟

※3 シーモアとフラニーはおよそ18歳差

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以下、ネタバレを含みます。

 

(1)バナナフィッシュにうってつけの日

まず、時間や部屋番号から婦人雑誌の記事タイトルまで、やけに詳細に書かれた冒頭部分から始まり、シーモアの妻・ミュリエルと彼女の母親の会話の場面に自然な形で入っていきます。

(ちなみに、フランス文学研究者の中条省平氏は『小説の解剖学』の中で、対象との距離を上手く保つ例としてこの物語の冒頭部分を引用し、具体的にどのような点が優れているのかを解説してます。情景描写からカメラ・アングルの変化を表現しており、いわば映画のような描き方をしている点を評価していました。)

ミュリエルと母親の会話から、シーモアが彼女の親族の間で鼻つまみ者にされていることが分かりますが、ミュリエルとしては放っておいて欲しい、シーモアは精神異常者ではないと主張します。

 

その後、場面はシーモアとシビルのやりとりに切り替わり、2人の噛み合っているのかいないのか、いまいちつかめない会話のシーンが続きます。

(話が少しずれますが、「シーモア・グラース」を「もっと鏡見て」と書くところは、「コネティカットのひょこひょこおじさん(uncleとankleをかけている)」と通ずるものがあるのかもしれない・・と思いました。サリンジャーの遊び心なのか、英語圏ではこのような同音異義語的言葉遊びはよくあるものなのか、原文ではどのように書かれているのかが気になります。)

シビルはシーモアに対して、他の女の子に優しくしないでと言ったり浮き輪に乗せてもらうなど、シビルにとってシーモアは歳の離れたボーイフレンドのような存在のようです。

一方シーモアは、シビルはあくまでも小さな女の子、しかし自分を好いていてくれるという認識があるように思えます。シーモアがシビルの土ふまずにキスするシーンはかなりドキっとしましたが(自分がシビルの親だったらかなり怖いと感じるだろうなと思ったので)シビルへの精一杯の愛情表現のように思いました。

かなりマニアックな部位へのキスだと思ったので何か意味があるのかしらんと思いネットで調べたところ、足の裏にするキスには「忠誠」の意味があるという記事を見つけました。これに関してはもう少し情報を集めたいです。

 

シビルと別れたシーモアは、エレベーターの中で見ず知らずの女性に対し、自分の足を盗み見ないでくれと言いました。このシーンは、シーモアが精神異常者であることへの裏付けと、身体の中でも特に足への意識が強いことを表す役割を果たしています。

そう考えるとシビルの足首をつかむシーンや土ふまずへのキスも、シーモアの足への意識と関連しているような気がします。

足は自分の身体を支え、歩行を可能にする部位です。シーモアは常に、自分が誰かに足元をすくわれるのではないかと思い込んでいたのではないでしょうか。

そのため、子供であるシビルには安心して自分を委ね、エレベーター内で一緒になった女性には攻撃的な言葉をかけたと考えました。

精神と足の結びつきについても、もう少しきちんと調べていきたいところです。

 

(2)コネティカットのひょこひょこおじさん

この物語は、同窓のメアリとエロイーズの会話が大部分を占めます。専業主婦のエロイーズの家で、2人はとりとめのない学生時代の思い出話をします。

会話の最中、エロイーズの娘・ラモーナが登場します。彼女にはジミー・ジメリーノというイマジナリーフレンドがいて、いつも彼と一緒に行動していますが、そのことにエロイーズは「付き合いきれない」と言います。

エロイーズは作中で子供心を分かってあげられていない母親として描かれていますが、もしかしたら理解しようとする努力はしたのかもしれません。しかし、エロイーズの精神状態に余裕がなかったり、ラモーナの行動が常軌を逸していたりする関係で、「付き合いきれない」状態になってしまった可能性も考えられます。

 

2人の会話の中で、エロイーズは学生時代に好きだったウォルトという男性の話をします。彼は、エロイーズのことを「しんから笑わせてくれる」唯一の男性で、「バナナフィッシュ」の感想でも少し触れた、「かわいそうなひょこひょこおじさん」の話もここで持ちあがります。

エロイーズはお酒の影響もあるのか、ウォルトが亡くなった話をしメアリの前で泣いてしまいます。昔好きだった人が亡くなったとしても、時間が随分たっているのであれば泣くほどのことはないと思うので(まだ自分は幸いにも、過去好きだった人が死んだという知らせを受けていないので想像に過ぎませんが)深く愛していたということが読み取れます。それと同時に、今の自分の生活との過去の美しい思い出の乖離を感じているのかもしれません。

 

また、ラモーナはエロイーズに、ジミー・ジメリーノは車に轢かれて死んでしまったが、ミッキー・ミケラーノという新しいイマジナリーフレンドが既にいることを話します。

ラモーナのイマジナリーフレンドは代替可能で、例え死んでしまってもまた新しい友達をつくれば一緒に遊び、眠ってくれる。しかし、エロイーズが自分の思い出の中でウォルトを生かし続けることには限界があります。なぜならウォルトの記憶は過去の産物であり、死んでしまったウォルトが自分の中でアップデートされることはない、ラモーナのようにイマジナリーフレンドのような立ち位置にすることも不可能という現実を、ラモーナとの会話の中で叩きつけられ涙が止まらなかったのではないでしょうか。

子供の無限の想像力と、現実の中で生きるしかない大人の悲しい対比が印象的でした。

 

(3)対エスキモー戦争の前夜

クラスメートのジニーとセリーナが、タクシーで相乗りをするシーンから物語が始まります。

セリーナからタクシー代をもらえていないジニーは我慢の限界、家までついていくからこれまでのタクシー代を払って欲しいと訴え、家までついていきます。

セリーナの家での場面が長いので、セリーナの家に連れて行くまでのきっかけとしての前段階ですが、子供同士の金銭問題から話が始まるなんて突飛だなと思いました。

 

セリーナを待つ間、ジニーはまずセリーナの兄・フランクリンに話しかけられます。そして、フランクリンはジニーの姉・ジョーンのことを知っていると言います。この周辺の会話をきっかけに、フランクリンに対する印象が「他人」から「ちょっと面白い他人」に変化していることが読み取れます。

フランクリン側もジニーに打ち解けたのか、食べかけのチキン・サンドをあげるといったり自分のこれまでの話をしたりします。フランクリンが飛行機工場で働いていた話も持ち上がりますが、彼にとってはいい思い出として残っていないようです。

 

フランクリンが自室に戻った後、彼の(恐らく)友人・エリックが訪ねてきて、ジニーに話しかけます。エリックは顔が整っているとわざわざ記載があるくらいだが、話が長く聞かれている以上のことを答えるため若干厄介な印象を受けます。ここで、整った外見と少し厄介そうな人柄のギャップを示したかったのでしょうか。

ここでも飛行機工場の話がでてきますが、エリックにとっても悪い思い出として残っている様子でした。

個人的には、その時代のアメリカ人男子が飛行機工場で働いていたことの歴史的意味が気になりました。

 

ラストシーンで、ジニーがセリーナにお金はやっぱりいらない、そして、夜にまた遊びにくるかもしれないと言い残して家を去ります。これは、ジニーがフランクリンかエリック、どちらかあるいかどちらにも好意を抱いたことの示唆なのでしょうか。

こちらは子供の役割も追求できず、感想らしい感想も書けませんでした。。力及ばず、無念なりけり。

 

次回は「笑い男」、「小舟のほとりで」、「エズミに捧ぐ」の感想を書きます。

 

おやすみさない。

 

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〈参考文献〉

中条省平『小説の解剖学』(2002年、筑摩書房